
  
|せんべい汁の歴史|せんべい汁年表|せんべい汁の系譜|
「南部せんべいとせんべい汁の歴史」
著 者 江刺家 均 (郷土史家)
監修者 正部家 種康 (郷土史家) |
南部せんべいとせんべい汁が誕生したのは、江戸時代後期のこと。文化文政期に江戸の食文化の影響を受け、五穀を中心とした主食への変化に関連して誕生したものです。
この頃、南部八戸地方では、飢饉や凶作に強く、土壌に適した麦や蕎麦の栽培が盛んに行われ、麦・蕎麦を中心とする食文化が発達しました。
麦や蕎麦は、粒状の実のままでは食べにくいため、粉に挽いてから熱湯を加えて練り上げる調理法が用いられてきました。練り上げた生地はすいとんのように丸め、汁物にしたり、焼餅のように火にあぶって食べられていました。
現在のような堅焼のせんべいが登場するのは明治中期のことで、初めは餅せんべいやてんぽ(天保)焼のような柔らかく焼いた「麦せんべい」や「蕎麦せんべい」が原型でした。
■南部せんべいとせんべい汁の始まり
〜季節の汁物に、麦せんべい・蕎麦せんべいをちぎって入れた〜
江戸時代に入ると、うどんの製麺技術の成熟に伴い、蕎麦も伸ばして切って食べるようになりました。江戸っ子の粋な食べ物として登場するのが、寛文(1661〜1672)の頃。うどんやそば切りが全国各地に伝播するのは、江戸後期の文化文政(1804〜1830)頃でした。
南部八戸地方にも、こうした食文化が伝播し、また八戸南部藩が麦・蕎麦の栽培を奨励したこともあり、独自の「麦・蕎麦食文化」を醸成しました。
麦粉を練り上げて作る「ひっつみ」や、餅状にした「麦餅」、餡の代わりに甘味噌や胡桃味噌を入れた「きんか餅」や「ばおり餅」、平麺とあずきを煮込んでお汁粉のようにした「あずきばっと」、串に刺して焼く「串餅」や、半熟状に焼いて食べる「麦せんべい」などもこの頃に誕生。
蕎麦粉のほうは、「そばがき」や「蕎麦きり」はもちろん、ネギ味噌などで食べる「そばかっけ」、団子状に仕上げた「そば団子」、湯通しした「そば餅」、平餅形にして囲炉裏の火であぶったり、焼いて食べる「蕎麦せんべい」などが生まれました。
この麦や蕎麦のせんべいが現在の「南部せんべい」の直接の始まりで、半熟焼きのてんぽせんべいや餅せんべいのようなものでした。麦・蕎麦せんべいそのものは、主食や小昼(※注1)として食べられていました。
また、野菜やウグイ・キジ・山鳥・蟹・ウサギなどの季節の具材を入れた汁物に、麦・蕎麦せんべいをちぎって入れる食べ方もありました。これが今日の「せんべい汁」の始まりです。
■麦せんべいへの転換と、せんべい焼器の登場
〜焼型の大量生産による南部せんべいの普及〜
せんべいは、当初各家庭の囲炉裏の火元で焼かれていました。八戸の城下で定期的に開かれた〈市〜いち〉で販売されると、せんべいの需要が拡大し、鉄製のせんべい焼器が作られるようになりました。
幕末頃は、刀鍛冶や農鍛冶の人々が副業として「せんべい焼器」を製造していました。明治に入り、八戸の美玉竹松が創業した〈美玉製鉄場〉がせんべい焼型を大量に製造し、せんべい焼型の元祖といわれています。この工場でつくられた鉄製の南部せんべい焼型は大変好評で、明治の中後期には北海道や樺太、津軽、秋田、岩手方面に販売されていきました。このため、「南部せんべい」の製造地域が大幅に拡大されることになりました。
明治三十年代に入り、食べ物に硬めのものが求められると、南部せんべいも現在のような硬焼のものに代わっていきました。それまでの半熟状のてんぽ焼が徐々に姿を消し、硬焼のできない蕎麦せんべいは、あっという間に見られなくなりました。
また明治四十年代に入り、石臼に代わって、機械動力の製粉機が石橋源右衛門によって八戸に導入されました。それに伴い、八戸地方で栽培されていた良質の小麦「うるち種」のせんべい粉が量産されるようになり、小麦を原料とする現在の「南部せんべい」に一気に転換したのです。
■八戸名物・南部せんべいの誕生
〜八戸駅の名産品として全国に紹介〜
硬焼の麦せんべいが「南部せんべい」の主流となる明治三十年代、東北本線と八戸線が開業。東北本線の駅であった尻内(現新幹線八戸駅)駅舎で「南部せんべい」「干し菊」などが売られ、八戸南部地方の名産品として広く知られるようになりました。名称は、「南部せんべい」と「八戸せんべい」とが混在していました。
名産品として広く知られるようになると、誰が作ったのか?という創始起源が求められ、「長慶天皇創始伝承」(※注2)や「八戸南部氏創始伝承」(※注3)などが、時代思潮を背景として醸成されていきました。「キリスト創始伝承」は昭和十年に突如誕生、これは別の要因でした(※注4)。
鉄道が全国の隅々まで開通する大正十年代には、鉄道省が鉄道旅行を奨励。そのガイドとして『鉄道旅行案内』が刊行されて、ベストセラーとなりました。この中に、全国の主要駅舎で販売されている名産・特産品が紹介されました。東北本線の主要駅舎で、「せんべい」を名産品として紹介したのは尻内(八戸駅)駅舎だけで、盛岡駅舎は「南部鉄瓶」でした。
昭和十五年に八戸商工会議所が設立されると、商業振興のために、カラー印刷の「名物・八戸煎餅」ラベルが作られるなど、八戸名物として商品開発が促進されました。
また、昭和二十年代初頭には、八戸煎餅組合によって「南部せんべい」の創始起源の再整理が行われました。(※注5)
その一方で、昭和五十七年の新幹線盛岡駅開業の前後に、旧八戸南部領域のせんべい製造業の人々や、八戸で煎餅の製造技術を学んだ人々が盛岡駅や周辺に出店して、元祖南部せんべいとして売り出しました。すると、「元祖南部せんべい」は、盛岡名物として全国に知られていきました。
それ以来、本家・元祖争いが生じているのが現状ですが、歴史的に見ると、八戸南部藩の馬淵川と新井田川の流域と隣接地に花開いた「麦・蕎麦食文化」から「南部せんべい」が誕生したのは、いうまでもありません。
■現在のせんべい汁の普及
〜明治30年代に登場。昭和40年代には、家庭料理として浸透〜
せんべい汁の誕生についてはこれまで述べた通りで、約二百年にわたって食べられてきた八戸地方独特の伝統料理です。
しかし、現在の調理法である硬焼の〈白せんべい〉を割って鍋に入れる食べ方が、いつ登場したのかは、はっきりしません。明治・大正生まれの人から聞いた話などから、硬焼の麦せんべいが「南部せんべい」の主流となった明治三十年代に登場したものと考えられます。
利用され始めたきっかけは、八戸南部地方で生産される「南部板麩」の代わりだったと推測されます。
昭和三十年代初期までは、半熟のてんぽ焼せんべいをちぎって入れた「せんべい汁」も並行して食べられていました。しかし、この頃を境にてんぽ焼による調理法は、姿を消してしまいます。以来、「せんべい汁」といえば現在の堅焼の〈白せんべい〉を割って入れる調理法を指すようになりました。
また、昭和三十年頃に、おつゆ用せんべいも登場し始めました。現在では、せんべい汁には、煮込んでも溶けにくいおつゆ用せんべいが使われています。
昭和四十年代に入ると全国的な郷土料理ブームが起こりました。「せんべい汁」も、八戸地方の郷土料理として紹介されるようになり、それまで食べる習慣がなかった家庭でも、食卓にのぼるようになりました。
■「せんべい汁」と「せんべいかやき」
〜代表的なふたつの調理法〜
初めからせんべい汁の材料を用意して「汁」として料理したものを「せんべい汁」と呼んでいますが、「せんべいかやき」という食べ方もあります。
「せんべいかやき」とは、鶏肉や豚肉、馬肉鍋、或いは魚鍋などを作り、肉や魚・野菜が少なくなった頃あいを見て、白せんべいをだし汁に割って入れ、煮込んで食べる料理です。
八戸地方の山間部では、この「せんべいかやき」という調理法も古くから取り入れられていました。
同じような料理なので混同して考えられていますが、いずれも白せんべいを使いながら、調理法は違うのです。
■八戸地方独特の南部せんべい食文化
〜お菓子だけでなく主食としても、南部せんべいを食べ尽くす〜
八戸地方では南部せんべいをいろいろな食べ方で食べ尽くしてきました。「せんべい汁」や「せんべいかやき」はもちろん、赤飯をせんべいで挟んだ「せんべい赤飯」(「おこわせんべい」「こびる(っこ)」「せんべいサンド」とも呼ばれています)も、古くから小昼(間食)として作られたものでした。
またせんべいを焼いた時に焼型からはみ出した部分を「せんべいの耳」と呼びますが、これもおやつやおつまみとして食べられてきました。
農繁期の野外での食事の際に、料理やご飯の取り皿としてせんべいを利用したり、飲酒の際にせんべいに料理や南蛮味噌、サバの缶詰などをのせて、酒のつまみとして食べることもあります。
このように、八戸南部地方の人々は、「南部せんべい」を菓子としてだけでなく、ある時は主食として、またある時は小昼として、さまざまな場面で食べ尽くしてきました。
馬淵川と新井田川の流域に発祥した「南部せんべい」と「せんべい汁」は、八戸地方ならではの「南部せんべい食文化」が根付いている証なのです。
南部せんべいの起源については諸説ある。
今回の調査では、歴史的な文献・資料を基にし、昔のことをよく知る人への聞き取りを行ってまとめたものです。
※註1 農作業などの休憩時に食べるおやつ
※註2 南北朝時代のこと。南朝の長慶天皇が畿内地方の争乱を避けて名久井岳の麓、長谷寺に遷宮。この時、食事に困ったため家臣の赤松助左衛門が、近くの農家からそば粉とごまを手に入れてきて、鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇の食事として差し上げた。このそば粉を水で練ってごまをを振りかけて焼き上げた食べ物が、後の南部せんべいの始まりであるとする説。
※註3 応永十八年(1411)のこと。南部の歴史で「秋田戦争」と呼ばれている合戦の際、八戸軍(根城南部)の兵士たちが戦場でそば粉にごまと塩を混ぜ鉄兜で焼いて食べたところ、兵士の士気が大いに盛り上がり、合戦に勝つことができた。材料が軽く保存もきくため、多くの合戦に携行されたのが南部せんべいの始まりであるとする説。
※註4 イエス・キリスト日本渡来伝説に付け加えられた話の一つ。ゴルゴタの丘での処刑を逃れたキリストは、シベリア経由で日本に渡来。八戸の八太郎崎に上陸し、現在の新郷村沢口や迷ヶ平で生活。十和利山中で生涯を閉じたという新造伝説。この時キリストの郷里で食べていたパンに似せて作り食べていた食べ物が、現在の南部せんべいの始まりであるという説。
※註5 入り乱れて語られる南部せんべいの起源をすっきりさせようと、当時八戸煎餅組合の代表だった坂本幸一郎氏を中心に、八戸地方の民俗や食文化、考古学に詳しかった音喜多富寿氏に依頼して「南部せんべい」の起源を整理。この時長慶天皇説を中心に整理された。
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